ロゴ

 2002W杯本大会が終わり、ベスト16という最低限の目標はクリアしたトルシエ日本。
 トルシエはキャプテン不要論者だったが、そんな中にあっても、ヒデのキャプテンシーは郡を抜いていた。
 昨年末に発売されたDVD「六月の勝利の歌を忘れない 監督:岩井俊二」なんかをみると、ヒデの存在なくしてトルシエ日本はありえなかった・・・とさえ思える。
 そんなヒデの求心力の源は「SERIE A」という厳しいリーグで培われたものだ。

 ここでは、ちょっとだけ、ヒデの足跡を辿ってみる。

ロゴ

 ヒデは、ここPERUGIAでは、紛れもなく大様だった・・・。
 「SERIE A」デビューとなった98−99シーズンの開幕戦で王者JUVENTUSからいきなり2ゴールを奪ったヒデは、一躍時の人となり、KAZUに次ぐ二人目の日本人CALCIATORE(サッカー選手)の実力を疑問視していたメディアに、そしてチームメイトに、DOPPIETTA(2得点すること)という形で自らのポテンシャルを証明して見せた。
 それはつまり、ヒデ個人の能力が、イタリアに渡る前からすでにSERIEレベルに達していた事を意味するものであり、あとはどれだけチームに馴染めるか。そして、イタリアのサッカーに順応できるかが問題だった。鳴り物入りでSERIE入りし、PARMA→LAZIOと渡り歩いたオルテガがそうであったように、司令塔としての類まれな技術と豊かな才能はあっても、「サッカーが合わない」という問題は起こりえるからだ・・・。
 ただ、ヒデは恵まれたことに、監督から厚い信頼を得ていた。チームがどんな状態になっても、我慢して司令塔として使い続けて貰うことできた。その甲斐あって、ヒデを基点とした攻撃の形が徐々に確立しく。右サイドハーフのペトラッキ(現在も親友関係で、最近もPIXUSのCMで共演していた)と左サイドハーフのラパイッチ(後にここでの活躍からクロアチア代表に選出される)とのコンビネーションに磨きがかかり、シーズン当初はいささかエゴイスティックに見えたスルーパスも、次第に相手チームを震え上がらせるキラーパスへと姿を変えていった。
 やがて、この両サイドから崩す形はPERUGIAの攻撃の形として確立し、ヒデ自身も、相手DFが両サイドに引きずられて開き気味になった中盤を、まさにFANTASISTAの如く軽やかに舞い踊った。
 このヒデたち攻撃陣の頑張りは、Bから昇格したばかりのPERUGIAを牽引し、ホームのレナト・クーリでは(だけ?)着実に勝ち点を重ねることに成功。シーズン中盤には「SERIE B」降格圏からも離脱し、順位も中位につけた。ただ、冬が終わりを告げる頃からPERUGIAは思うように勝ち点を伸ばす事が出来なくなり、シーズンが終盤に差し掛かる頃には、再び降格すれすれのラインまで順位を落としてしまった。
 そして、この試合負ければ「自力での残留がなくなる」という切羽詰った状態でシーズン最終戦を迎えた訳だが、その対戦相手のMILANもこの試合に3年ぶりのスクデットが懸かっていて、両チームの目指すものは違えど、この日のレナト・クーリの熱狂ぶりは凄まじかった。
 しかも、結果は惜しくも敗戦・・・。
 ただ、幸いな事に、降格を争そっていたサレルニターナも最終戦に敗れたことで、PERUGIAは辛くもA残留を果たし、ヒデもなんとか「Bに降格させた男」というレッテルを貼られずに済んだ・・・。
 こうして、周囲から奇異の目で見られながらスタートしたヒデの1年目は「10ゴール」という輝かしい記録を残し、その幕を閉じた。
 そして2年目。
 1年目の活躍でビッグクプレイヤーの仲間入りを果たしたはヒデには、シーズンオフ、欧州各国からオファーが舞い込み、自身も一時は「PERUGIAを出たい・・・」とのコメントを発表。その動向にグりフォーニ(PERUGIAのTIFOSI)のみならず、イタリア中が注目したが、結果として、ヒデはイタリアに留まることを決意。PERUGIAへの残留という形で落ち着いた。
 こうして迎えた2年目のSERIE A。ただ、そのプレーは、明らかに1年目とは違っていた。それは「10ゴール」を奪うことで、己の存在意義をチーム内外にしらしめることに成功した1年目を踏まえ、2年目は自ら進んで得点する必要はないと判断した為に起こった意識改革であり、その結果が司令塔の本来の姿「ファンタジーア」なプレーを連発するヒデの姿となったのである。
 シーズン前、インタートト杯敗戦を機に、マッツォーネ新監督との確執が噂されたり、2年目のジンクスを成就させようと躍起になる相手選手の執拗なマークに苦しみながらも、ヒデは着実に進化を続けていいった。盟友ラパイッチとのコンビも健在で、熱いナイフがバターを切り裂くような切れ味のスルーパスが相手チームを恐怖に陥れていく・・・。
 そして、この働きに目をつけたROMAが、「冬の移籍市場」でヒデを獲得。
 こうして、ヒデのPERUGIAでのCALCIATORE人生は、唐突に終わりを告げた。
 ベルマーレ平塚(当時)から「3億円」でPERUGIAへやってきたヒデは「15億円」でROMAに買い取られたのである・・・。


ロゴ

 2年目の「冬の移籍市場」でROMAへやってきたヒデは、ここROMAでSERIEの頂点に立つことになる・・・。
 PERUGIAの大敗が続き、うしろ髪を引かれながらも、ROMAのカペッロ監督の熱心な誘い(なんでも、レストランで”フランスパン”を使ってフォーメーションの説明をし、ヒデに与えられるポジションとその必要性を説いた。という話も・・・)で、ヒデはスクデットを狙うビッグクラブへの移籍を決意したようだ。
 そして、合流直後のVERONA戦から、慣れないボランチとの戦いが始まった・・・。
 これはかなり後になってわかったことだが、ヒデがROMAへ移籍する条件のひとつに「出場時間の確約」というのがあったらしく、明らかにチームに「馴染んでいない」状態にも拘らず、ヒデには出場機会が与えられ、その中で、トップ下に君臨する王子様「トッティ」のバックアップ的な役割「超攻撃的ボランチ」としての可能性に挑み続けた。
 PERUGIA時代とは比較にならないほど高い次元のプレーが連発されるビッグクラブ。ヒデがどれだけFANTASTICなプレーを魅せようと、欧州・南米各国の代表がズラリと顔を揃えるこのROMAでは、それすらも霞んでしまうことが現実。しかも、ヒデの加入に合わせて、闘争本能に火がついたトッティは手がつけられない程「超人的」なプレーを連発し、チームを連勝街道に導いていった。
 慣れないポジションに、レベルの高いプレー。味方選手の特徴が把握しきれていない分、パスを貰うにしても出すにしても、今一歩タイミングが掴めない。チームにもいまひとつ溶け込めない。だから、必然的にボールが回ってこなくなる・・・。
 ヒデにとっては苦しい戦いが続く中、チームはなんとかスクデットが狙える位置をキープし続け、いよいよ迎えたJUVENTUS戦。
 この試合に勝てば、スクデットの望みが繋がる大事な試合で、ROMAは完全なる敗北を喫し、この年のスクデット獲得は夢と消えた・・・。
 その後、欧州CL出場権獲得の4位を目指したROMAだったがこれにも失敗し、結局UEFAカップ出場権獲得圏内の6位でシーズンを終えた。
 こうしてヒデの2年目は「移籍」という環境の変化にひたすらに耐えるシーズンとなった・・・。
 
 そして迎えた3年目。ヒデはROMAで再びスクデットを目指すことになった。
 戦力は充分すぎるほど整っていた。FWにFIORENTINAからバティを獲得。MFには世界最高のボランチの呼び声高いエメルソンを、DFにもサムエルと、主力は一切放出せず怒涛の補強を敢行。そしてヒデはこの年、どうしても馴染めなかったボランチを捨て、司令塔一本で勝負しようと誓ったのである。
 だがそこに降って沸いた「パスポート不正疑惑」。SERIEに突如として起こったこの問題は、例外なくROMAへも波及し、この疑惑に係る「後の制裁」を恐れたROMAは外人枠対策として、ヒデをベンチからも外してしまった・・・。
 このベンチにすら「入れない」という異常な事態は長く続き、ヒデも試合をスタンドから眺めることが多くなってしまった。
 だが、そんなヒデの不遇とは相反するように、ROMAは開幕から快進撃を続ける。元々カペッロの思惑では、この年はシステムを「3−5−2」から「4−3−1−2」に変更するハズだったのだが、ワンボランチを張るハズだったエメルソンが開幕前に大怪我をしてしまい、やむなくシステムを「3−5−2」のままでシーズンインした訳だが、トンマージの発奮もあり、これが当たったのだ。
 また、この年行なわれた欧州最大のサッカーの祭典「EURO2000(欧州選手権)」でも、AZZURIは決勝でフランスに紙一重で敗れたものの、ROMA勢は獅子奮迅の活躍。これまで「20」をつけ、司令塔としては、ロビーやアレックスの後塵を舐めてきたトッティが今大会で完全に司令塔を強奪。後のW杯欧州予選で「10」を背負う足がかりを磐石なものとした。
 こうなるとトッティのROMAでの司令塔の座も揺るぎないものとなり、ヒデは前述したパスポート疑惑に絡むベンチ外扱いと合わせて、益々苦しい立場に追い込まれていくことになる。
 だが、ヒデはこれでも決して腐ることはなかった。
 数少ない出場機会では地味ながらも確実に仕事をし、トッティが君臨する司令塔の座を「隙あらば奪い取る」という姿勢を貫き通したのだ。
 これは、トッティをしてシーズンを通じてベストなパフォーマンスを発揮するのは難しいと睨んだ、我慢という名のモチベーションだったのだが、この我慢はやがて、SERIEにおける「外人枠の撤廃」という一大転機を呼び込み、ヒデは再び時の人となる。
 シーズンも終盤の第29節。対戦相手はまたしてもJUVENTUS。
 ヒデがPERUGIAで迎えたCALCIATOREとしての第一歩も、掴みかけたスクデットの夢を打ち砕かれたのも、古くは練習生として合宿に参加したのも、すべてJUVENTUSがらみという、まさに因縁の対戦。
 この試合、ROMAは試合開始早々、立て続けに2点を奪われるという最悪のスタート。おまけに頼みのトッティはここ数試合調子を落としていて、ゲームを組み立てることができず、試合は終盤に差し掛かろうとしていた。この敗色濃厚な雰囲気の中、この試合の直前に突如決定した「外人枠撤廃」の恩恵に授かってベンチ入りしていたヒデが、トッティに代り満を持してピッチに登場。
 ここまで我慢に我慢を重ねてきたヒデは、解き放たれた獣のように、JUVENTUSゴールに襲いかかる。
 そして放たれた「魂の咆哮」とも言うべき、壮絶なミドルシュート。
 日本時間にして早朝の6時ちょっと過ぎだったか、4時30分の試合開始早々JUVENTUSに2点を奪われ敗戦濃厚になりながらも、寝ないで見ていたことを誇りにすら思えるほど、鮮烈に記憶に刻まれた、あの、
 「よっしゃ〜っ!」
 とヒデが叫んだゴールがこれである。ROMAのセンシ会長に「このゴールだけでも中田に15億払った意味がある・・・」と言わしめたゴール。その直後、今度は左サイドから豪快なミドルシュートを放ち、GKファンデルサールが弾いたところをモンテッラが気合で押し込んで同点。デッレアルピを埋めつくしたユベンティーノを地獄の底に叩き落す、試合終了前10分間での怒涛の2ゴールだった・・・。
 ROMAはこの日のドローと、次節のATALANTA戦でのヒデのCKからの得点で得た勝利をモノにして、18年ぶりのスクデットまであと一歩ということろまで漕ぎつけていた。
 そして、この逼迫した状況で起こったのが、「ヒデ、コンフェデ決勝をソデにする・・・」に端を発した、トルシエとの確執・・・。
 で、ここはSERIEのコーナーなんで、ハッキリしておきたいが、あの時のヒデの判断に間違いはない!と断言する。
 そもそも、ROMAと日本サッカー協会の間では、ヒデのコンフェデへの出場は予選リーグの「2試合だけ」ということになっていた。それを、3試合目の「セレソンby3軍戦」と、あの豪雨の準決勝「オーストラリア戦」まで出場したのは、ヒデの日本代表へのおもいやりである。すでに確保してあった航空券をキャンセルしたのがその証拠。
 大体、ヒデが決勝を前にイタリアへ帰ったことについて、フランス代表監督のルメールが「あれは許すべきではない・・・」とか言っていたが、自分のチームの主力選手であるジダンとトレゼゲ(当時、共にJUVENTUS所属)にはSERIEでのスクデット争いが佳境に入っていることを理由に召集を見送り、おまけに言えば、ヒデと同僚のカンデラに関しては、当時出場停止処分が下っており、ヒデが出場を望んだNAPOLI戦には「出場できない状態だった」にも拘らず、これも召集していないのだから、大きな事言うな!と言ってやりたい。
 トルシエが師と仰ぐベンゲルも、TVのコメンテーター兼ヒデ獲得の根回しに日本に来ていて、彼もルメール同様ヒデのイタリア帰国を非難したようだが、ベンゲルほどの人物が、イタリアでスクデットが懸かった試合をソデにすることの意味を知らない訳がない筈だ。
 かつてエジムンド(現、東京V1969)がスクデットの懸かった試合を、リオのカーニバルに出たい!というとんでもない理由でソデにしたことがあって、それはもう大変な騒ぎになった。おそらく彼はもう二度と、SERIEでプレーできないだろう・・・。
 ヒデに関しても、FIFA主催の国際大会という名目はあるものの、もし、スクデットが懸かった試合をソデにしたら、SERIEでいま最も危険なTIFOSIとされるロマニスタがどんな行動にでるか、考えただけで恐ろしい。ましてや、NAPOLIに負け、結果として18年もの永き渡って待ち続けたスクデットが霧散した場合、その怒りがヒデに集中することだって、十分考えられたはずだ。
 穿った見方をすれば、ヒデを熱望していたベンゲルは、ヒデがこのまま日本に残りイタリアでサッカーできなくなる状況を望んだのではないか・・・と考えなくもないが・・・。
 結果はご存知のように、ヒデは決勝を前にイタリアに戻り、NAPOLI戦のベンチに座っていた。
 この試合は、ザネッティの「大ポカ」でスクデットを逃したが、最終節のPARMA戦で、ROMAは18年ぶりのスクデットを獲得した。
 そして、その栄光の笛がなる瞬間。ヒデはピッチに立っていた・・・。

 
ロゴ
 
 大きな期待に包まれてPARMAへやってきたヒデ。だが、そこで待っていたのは・・・。
 「SERIE A」で4シーズン目を迎えるにあたって、ヒデはPARMA移籍という道を選んだ。その移籍金、驚愕の「30億」!
 SERIE4年目にして初の「10」を背負うことになったヒデ。誰もが、その「10」が栄光に包まれるものだと思っていた。
 だが、新生PARMAは出だしから躓いた。
 昨季4位という好成績を残したPARMAは欧州CL本戦への出場権を懸けて、フランスのナントというチームと予備予選を戦うことになったのだが、フタをあけてみれば、PARMAはチームとしてまったく完成されていなかった。ブッフォンとテュラムが抜けた守備陣は脆さを露呈し、ヒデ率いる中盤はこれといった攻撃の決まりごとを持たず、アタッカー陣も使えなさそうな連中ばかり・・・。
 このチームのどこを押せば、スクデットを狙う!欧州CL制覇!という言葉になるのか、謎だらけのスタートだった。
 案の定、予備予選でナントに惨敗し、欧州CL本戦への出場ははかなく消えた。とにもかくにも、ヒデが日本人初の欧州CL出場選手なるものだとばかり思っていたので、とにかくがっかりさせられた。で、その日本人初の欧州CL出場選手という名誉はなんと!アーセナルに移籍したイナだった。まさに大穴・・・。
 PARMAにとって、この欧州CLへの出場権の獲得失敗は経済的に計り知れない打撃を与えることとなる。ざっと計算しても、欧州CLへ出場した場合に発生する、放送権料・入場料・親会社Parmalatのイメージアップによる副収入なんかを合わせると、軽く10億を上回るものと思われていた。実際、ヒデにあれだけ高額な移籍金を払ったのも、この欧州CLで発生する収入をアテにしていた可能性が高い。まあ、ブッフォンとテュラムを放出しているのだから、丸損という訳ではないのだろうが、経済的に痛かったのは間違いない。
 かくして、PARMAは最悪のスタートを切りながら、SERIEのシーズンを迎えた。
 その開幕戦。LECCEでのアウェイ戦に臨んだのだが、試合開始早々、ブッフォンに代わってやってきたGKフレイがパントキックをしようとした瞬間、フレイの後ろから現れたLECCEのFWにボールを掻っ攫われ、ウソのような形で今季初失点を喫すると、PARMAは再びドタバタ劇を展開した。
 この時の失点が、今季のPARMAの不調を予兆していたのかもしれない・・・。
 さて、ヒデはというと、獲得を熱望したウリヴィエリ監督の采配の恩恵に与って、毎試合スタメン出場を果たすこととなる。ただ、ウリヴィエリ監督はチームが勝ち星を拾えず、なかなか波に乗れないとみるや、ヒデをFWで使ってみたりシャドーストライカーにしてみたりと、ただでさえ戦術が確立していないPARMAを一層混乱させていく。
 これは、キャンプでフィジカルを中心にしたメニューをこなした弊害でもあり、この辺りは昨季のConsaと似てるかも知れない。
 結局、ウリヴィエリ采配はPARMAを立て直せないばかりか、試合毎に選手のポジションも戦術も入れ替えた為、シーズン開幕時かそれ以前のかなり混乱した状態に陥っていった。
 しかもそのPARMAの成績不振の責任が「10」を背負うヒデに集中し、かなりきな臭い雰囲気がPARMAを包み始めると、ウリヴィエリ監督は突然!辞任を発表。
 新監督が決まるまで、カルミニャーニコーチが監督代行を勤め、テクニカルディレクターにサッキを召集。新監督には、サッキの一番弟子でもあるアンチェロッティが有力視され、PARMAはチームとフロントが一体となって立て直しを図ろうと躍起になっていたちょうどその頃、「埼玉2002」で日本vsAZZURRI戦が行われ、ヒデも日本へ一時帰国。と、その間にPARMAの新監督にパサレラが就任(アンチェロッティは同時期にオファーが舞い込んだMILANの監督に就任)。W杯フランス大会時、アルゼンチン代表を率いた監督であり、就任直後はヒデにも好感触を持っていると語っていたが、実際の所、おそらくはこれが転機になると期待した第11節のJUVENTUS戦でスタメンの座から滑り落ち、この辺りからヒデはベンチを温める機会が多くなっていく。
 それから1ヶ月あまりの間、パサレラは自らのチームカラーを出したかったのか、はたまたサッキの指示だったのか、明らかな「ヒデ外し」を敢行し、チームをどういった方向に持って行きたいのかという方向性も掴めないまま、PARMAは連敗街道を爆進する。
 そして、パサレラ解任・・・。
 ここで再びカルミニャーニの登場となったのだが、ヒデを待っていたのは更なる冷遇だった。
 これに追い討ちをかけるように、冬の移籍市場ではPARMA側が積極的にヒデ放出を画策し、BRESCIAもヒデのレンタルを正式にオファーしてくるなど、身辺が慌しくなっていく。BRESCIAの現監督はPERUGIA時代の恩師マッツォーネであり、グアルディオラのドーピング違反という不測の事態で苦しいなったチームをなんとか立て直そうと思ったようだ。また、BRESCIAのロビー(ロベルト・バッジョ)からもヒデの携帯に直接、誘いの電話があったようだが、ヒデは現状には厳しいものがあると認めながらも、PARMAに残留することを固持。ROMAの時とは全く違った形で、試合に出れない状態が続いていくことになる。
 「中盤の選手のひとり・・・」、「中田はトップ下の選手ではなく、ボランチの選手・・・」などと、耳を覆いたくなるような言葉を連発するカルミニャーニ。どうしてそこまで嫌っているのか皆目検討もつかないが、実際問題としてヒデへの冷遇は続き、試合には出られたとしてもボランチだけ。トップ下にはミクーが君臨し、そのミクーが怪我しようともヒデはトップ下をやらせてもらえない・・・。
 このまま試合に出られない状態が続けば、W杯にも影響が出ると、かなりやきもきさせられたが、そこはヒデ。ボランチのボゴシアンが故障したことで、久々に廻ってきた数少ないチャンス。その対戦相手はまたしてもJUVENTUS!どうしてこうまで因縁が深いのか・・・。この試合で、ヒデは久々に先発フル出場を果たし、試合中も随所に光るプレーを魅せ、大金星となる勝利に貢献。これにはさすがのカルミニャーニも脱帽だったらしく、試合後「ヒデは良くやってくれた・・・」とコメントを残している。
 そして迎えた、3/27の日本代表vsポーランド戦。
 試合開始早々に先制点を奪うなど、格の違うプレーで日本代表を牽引。確執が続いていたトルシエをも唸らせ、日本代表に「NAKATAあり」を日本のファン、そしてPARMA首脳陣に猛アピールした。この試合、イタリアでの放送はなかったらしいが、この活躍はイタリアでも大きく取り上げられたようで、続くMILAN戦でも、ヒデはスタメン出場を果たす事になる。
 ここから明らかに風向きは変わった。再び、ヒデはPARMAのそして日本代表の表舞台に躍り出た。
 この年。PARMAは辛くもA残留を果たした。
 そして、「来年は、もっとサッカーを楽しみたい・・・」と語っていたヒデは「02-03シーズン」に於いても、PARMA残留という道を選んだ。
 冬の「カルチョ・メルカート(移籍市場)」では、プレミアのクラブが触手を伸ばしているなどという、いつものような憶測記事が飛び交い、相変わらず賑やかなものである。

 次は何処へ?
 それはヒデ本人しか知らない。。。

前のページへJump♪ 「SERIE A トップページ」へJump♪ 次のページへJump♪


    「野本貴金属加工所はコンサドーレ札幌のサポートシップ・スポンサーです」
    
このサイトは、野本貴金属加工所こと[NOMOKIKI]が製作・運営しています。
       また、このサイトにあるすべての画像と文章の無断転写・転載はご遠慮下さい。
  All Rights Reserved. Thank you.